辻石斎の作品

創業以来、棗や食篭(じきろう)等の茶道具を中心に、
お椀・お盆・香合等の山中漆器を制作しております。

一閑張日月椀
白檀塗日月椀
唐人椀
六瓢椀
朱瓢膳
独楽面取食篭
朱金地柳大棗
紫金地雪輪平棗

魯山人弁当

二代・石斎が美と食の大家「北大路魯山人」と交流があったことから、地元企業の協力のもと、
加賀料理や魯山人の好物、山中漆器などを使った「魯山人弁当」を監修しております。

辻石斎と北大路魯山人

細野燕台がつないだ二人は初対面で意気投合、辻石斎は魯山人に漆芸の指南と制作を担って行くこととなり、
公私共に晩年まで交流がありました。

辻石斎と北大路魯山人

大正4年、北大路魯山人が篆刻家・福田大観と称していた頃、福井の久保田朴了軒の引き合わせで金沢の細野燕台と出会い「食客」として招かれました。魯山人は、当時数寄者として知られていた細野燕台の美意識に深く感銘し、自己の「食」と「器」に対する転換期を迎えます。 細野燕台は、交流のあった山代温泉の須田青華、山中温泉の矢口永寿、辻石斎に福田大観を会わせました。辻石斎は当時茶道具を手掛ける作家で、大観とは初対面ながら非常に親しくなり、その後漆芸の指南と制作を担って行くこととなりました。山代温泉で陶器の制作を始めると器に対する情熱は更に高まり、毎年山代・山中を訪れ各工房で陶器と漆器の制作に取り組み、古物の意匠の研究や復元、自らも成型・絵付けに情熱を注ぎました。

大正7年北大路魯山人と称するようになり、大正8年に中村竹四郎と「大雅堂芸術店」を開業すると翌年に「大雅堂美術店」と改名し、大正10年には「美食倶楽部」を開業します。その頃に、辻石斎の協力の元「一閑張日月椀」が完成しました。大正13年の関東大震災で東京の店舗等すべてを失いましたが、その年の秋、日比谷に「花の木茶」を開業し、翌大正14年には星岡茶寮が開業しました。
辻石斎には魯山人自らがデザインした椀や膳等の制作を依頼し、個性あふれる作品を生み出しました。

山中温泉の北大路魯山人

辻石斎の妻が作る田舎料理がお気に入りで、わざわざ旅館に運ばせるほどでした。特に贅沢煮と言われる「沢庵の煮物」が好物だったそうです。鴨や鮎を食する際は「小ぶり」の物が良いとし、大きめの物は食べませんでした。 辻石斎と食や器の好みが合い公私共に晩年まで交流がありましたが、魯山人から絶縁状が届き一時期絶交したこともありました。辻石斎の妻が「蕎麦を食べに来ませんか?」と手紙を出したところ、ひょっこり山中温泉に現れ交流を再開したそうです。

山中温泉には魯山人ゆかりの建物があります。料亭「明月楼 離れ」は魯山人滞在時の原形を留め、現在も食事をすることができます。また、九谷焼作家・矢口永寿邸も当時の姿で残っています。昭和10年に建築された辻石斎店舗の陳列や居間の明かり取り窓の監修は、魯山人によるものです。